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映画の試写会が当たって、女房ともども観に行ってきました。

『焼肉ドラゴン』

焼肉屋の話ですが、不思議と焼肉食べたくはならない映画でした。(笑)


素晴らしい映画だったので、多くの人に見て欲しい映画です。
実は映画の舞台、我が家からそう遠くない場所の話だったのにびっくり。

コマーシャルから、てっきり大阪の鶴橋あたりの話かと思っていたら…


伊丹空港近くのある場所の話。


映画を観ている時にはそうも思ってはいなかったのですが…

なんかやけに近い場所あたりの話だよなぁ…

とは感じていたのですが…。


元は話題となった同名の演劇の映画化です。


予備知識無しに観たのですが、映画で興味を持ってしまって、帰って調べてみると

「えっ?」

「なんと?」

「ええっっ!!!」


とびっくりするくらい近くの話なのでした。


まだ公開前なのでネタバレはしたくないので、公開後に改めて感想はまとめます。


さて、

気になった、いや、気にならなかったのはその言葉。


見事な方言。


ひとくくりにするのは難しいかも知れないですが、少なくとも日本語は どストレートの摂津言葉。

住んでる地元そのものの方言なのですが、まったく違和感が無くってスムーズに物語りに入っていけました。



聞けばとんでもないほど、演者さんたちは修正をさせられたそうです。

もともと大泉洋さんなんて、関西弁の物まねのうまい人でしたが、ここまで流暢だったっけ…

というより、もろ地元民じゃんってくらい…の演技でしたが、その裏では手厳しい指摘と修正が繰り返しされたのだとか。


しかし、そのおかげで違和感なく映画の世界に浸れました。


やはり、言葉は大事です。


作品世界にのめり込ませる為にも。


先日の映画と、こと言葉に対しての取り組みが雲泥の差だったので、特にそう思えてなりませんでした。


『焼肉ドラゴン』6月22日公開です。


ぜひご覧ください。


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【2018/06/10 16:50】 | ひとりごと
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先日、ある映画を見てて、酷くがっかりした事が…。

映画そのものはかなり好い出来だったのだけど、その感動が、すっかり醒めてしまったほど。


方言がねぇ…


映画の設定ではある人物が、京都から横浜(?)へ転校して来たとの事なのだけど、それが、いやあ~~~~~~~~~~~~な、東京キー局で有りそうなステレオタイプの大阪弁もどき

京都出身者の筈なんだけど、京都がらみの言葉になんて使ってもいないどころか、全くかすりもしてない。

主人公で無かったから、被害最小限だったかも… だけど、あれは酷い。

京都出身の役者さんくらい居たろうに…

明らかなキャスティングミスかと…


まあ京都弁と言っても、京都都市部を中心にした南部の山科地方と、京都府北部の丹波、丹後地方ではまるで異なる訳ですけれども、そもそも京都弁と大阪弁ではまるっきり異なりますから。

その大阪弁も、河内、和泉、摂津の各地方で言葉が異なりますし(違うのはビミョーには判るけど説明は難しいなぁ…)、それは隣接する兵庫県も同じ。

兵庫県でも、姫路あたりの播州言葉と阪神間、神戸弁とじゃ、まるで別ものなんです。

映画製作者の、関西弁らしければ良いだろうって安易な感覚透けて見えて、ほんっとに心底許しがたい。

少なくとも、もの作りするのなら、そのくらいのデリカシーは必要だし、映画製作なら、その文化に敬意を払うだけの感覚は欲しいのだけど。



ヨーロッパじゃ国ごとに言語が異なる訳ですが、日本の場合、国で標準語を制定しているから、基本日本語であれば通じますよね。

しかし、小さな国土ながら、古くは60余州の国割りがあり、更に江戸時代には藩制の結果、300余候の藩に別れ、それぞれにお国言葉とされる方言があった訳です。

面積的にはともかく、人口比率でヨーロッパ並に考えると、日本の方言ってヨーロッパの各国語並みになるんですよね。

ですから、幾つか方言が扱えれば、ヨーロッパなら数ヶ国語マスターしたのと同等だと思っています。

津軽弁と薩摩弁との差と比べたら、英語とドイツ語の差より小さいかも知れないくらいだから。



以前、TBS制作のドラマ『ORANGE』で、眼も当てられないエセ神戸弁使われた時には、ほんっとに「バカにしてんのか!? こいつら阪神大震災の事、全く理解しようとしてないだろ!!」と憤ってしまいました。

舞台の『ORENGE』では、北海道出身ながら主役の音尾琢真さんが、ほぼ完璧な神戸弁を使っていてくれたのに比べると、彼の足の爪の垢を舐めさせてやりたいほどの酷さ。

番組制作者のやっつけ仕事。

少なくとも、もの作りをする者としての真摯な姿勢は、かけらも感じられませんでした。


ま、関西弁が方言として、難しい言葉なのは充分理解しているのだけど。

その理由は情報量。

他地域の方言に比べると、関西地方の方言の情報量は数倍に達すると言われています。

それは、言葉そのものだけではなく、イントネーション、リズムが複雑に組み合わせれている為で、独特のイントネーションとリズムがあるのです。

1から10まで数えさせるだけで、関西人かどうか判りますから。


関西では共通するこうした言い回し、リズム、イントネーションはあるのですが、それでも各地域で異なるのです。

かくいう僕自身、四国の生まれで、親戚には大阪在住の人間が居り、同じ関西弁なら判るだろうと、割りに軽い気持ちで神戸に引っ越しし、住みはじめた時にはショックを受けました。

それほど、神戸弁と大阪弁では距離以上に言葉は異なるし、また京都弁(地方によるけど)も違うものなんです。

同じ兵庫県の方言ですら、神戸と姫路と淡路ではまるで異なるので、同じ兵庫県だからと言われても、通じない言葉があったりします。

「業沸く(ごうわく)」なんて、意味判らないでしょ。


映画、舞台、ドラマなど制作するのは大変だと思いますが、言葉は生きものだし、その成否でその作品の価値そのものが変わってくるものだと思っています。

好い映画だっただけに、残念でなりません。


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【2018/06/01 16:26】 | ひとりごと
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TEAM NACS 第16回公演 舞台『PARAMUSHIR』に登場する戦車の塗色について

先のブログにも書いたのですが、第二次世界大戦終戦時に北の最前線 占守島を守備していたのは、第91師団と戦車第11連隊の戦車部隊でした。

戦車第11連隊はそもそも満州で組織された部隊で、満州の守備に当たっていました。

しかし、昭和19年初めに北千島防衛の為、移動となります。

この時、船で直接移動したのかと思っていたのですが、残された資料本に拠ると、何と満州から長躯鉄道移動で朝鮮半島を南下し、本土を縦断して北千島に移動したとあります。

この戦車第11連隊の戦車の模型の塗装に当たって、塗色をどうしたものかと悩みました。

日本戦車の塗色は開戦当初と、終戦当時では異なる為です。

いつの時点を模型化するかで、色が変わってきますし、当然雰囲気も違ってきます。

作りたいのは昭和20年8月15日時点のもの。

日本陸軍は昭和19年ごろに、戦車塗色の制式化がされたとの情報があり、その頃、工場から配備された一式中戦車や、三式中戦車、三式砲戦車などは当然この後期仕様の塗色だったと考えられます。
しかし、戦前から配備されていた戦車についてはそうでなかった可能性も拭えません。

戦車第11連隊に所属していた戦車は次の3種類で、いずれも戦前から生産された車輌でした。

九七式中戦車改(チハ改、もしくは新砲塔チハ)
九七式中戦車(チハ)
九五式軽戦車

戦前~大戦初期にかけては、3色迷彩されたものに、距離感を惑わす為の黄色のラインが入るものが主流でした。

ですが、残された写真を見る限り、3色迷彩ではあるのですが、黄色のラインは無くなっており、単純な3色迷彩に変更されているようです。

そこで、個人的な推測ですが、内地に一度引き上げた際に、再整備、再塗装が施されたのではないかと考えました。
しかも、当時制式化されたばかりの後期塗色に変更された上で塗装されたものとして模型は塗装しました。

塗り分けについては、当時の写真を元に推測したのですが、あまり自信はありません。

特に上面に関しては写真が無く、全くの推測。
まあ、この点ドイツ戦車も状況は変わりませんけど…

日本戦車の場合、ほぼ人の手による刷毛塗りだった様なので、エアブラシを使っていますが、塗り分けの境界はハッキリしています。

この点が、スプレー使用のドイツ戦車との大きな違いかと思っています。


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【2018/05/17 09:28】 | ひとりごと
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チハ車

九七式中戦車

(TEAM NACS 第16回 本公演 舞台『PARAMUSHIR』に出てくる戦車について)


第二次世界大戦での、日本陸軍の主力戦車。
皇紀2597年(昭和12年、西暦1937年)採用で、制式年号から下二桁を採って九七式と名付けられました。










皇紀とは、神話時代の神武天皇以下、歴代天皇の治世年数を足したもので、戦前の日本の年号のひとつとして用いられました。
有名な日本海軍の戦闘機 零戦(ゼロ戦)も、制式採用が皇紀2600年にあたる昭和15年(西暦1940年)だった事から、制式名称 零式艦上戦闘機、略して零戦と呼ばれました。

1920年代に国産戦車の試作を始めた日本陸軍は1929年に初の制式戦車の開発に成功し、八九式中戦車として採用されます。
当初、軽戦車として開発された同戦車でしたが、開発中に各種の要望を盛り込むうちに、重量10tを越えてしまい、中戦車として類別されます。

初期型の甲型、改良型の乙型を含め、初期の日本陸軍戦車部隊の主力とされますが、車体重量11~12t、短砲身57mm砲、機関銃2丁、路上最高速度25km/h、装甲12mmという、その性能はお世辞にも褒められたものではありませんでした。

歩兵支援戦車にも関わらず、路上最高速度が遅過ぎ、トラック輸送により、より機動力の増した歩兵についていく事が出来ませんでした。その為、より機動力を増した戦車が必要との要望から新たな戦車が開発されます。

それがチハこと、九七式中戦車です。
チハとは3番目に計画された中戦車の意味で、チは中戦車、ハはイロハ順で3番目を指します。
因みにこの略号はその後も使われています。
制式化されたものですと、
(チイ) 八九式中戦車 甲型
(チロ) 八九式中戦車 乙型
チハ 九七式中戦車
チへ 一式中戦車
チヌ 三式中戦車
チト 四式中戦車(試作車)
チリ 五式中戦車(試作車)
といった具合。
間に計画だけ、あるいは試作のみに終ったものもあるので、一部欠番があります。
(八九式中戦車は当初の計画名称がイ号戦車でした。軽戦車として試作され、その後、中戦車に類別されたものなので、符号は後からの便宜上のものです。)

また、チヌ 三式中戦車はイロハ順で行くと、チト 四式中戦車や、チリ 五式中戦車よりも後になりますが、チト、チリの実用化に時間が掛かると考えられ、一式中戦車を改良した、中継ぎとして計画されたので、計画符号が逆になっています。


九七式中戦車(チハ)は、重量15t、短砲身57mm砲、機関銃2丁、路上最高速度38km/h、装甲25mmという性能でした。

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九七式中戦車(チハ) 戦車第11連隊 1945年 占守島



ただ、この性能は、当時の世界の戦車のトレンドからは、既に遅れたものでした。

当時、世界の戦車は戦車対戦車の闘いを想定したものに変化してきており、塹壕戦を前提とした歩兵支援戦車の発想そのものが疑問視されてきていました。

戦車開発をしていた多くの国が、より強武装、高速、そして重装甲を備えた戦車の開発を行っていきます。

そうした中、1939年に始まった第二次世界大戦初頭、ドイツがポーランド侵攻にあたって採った電撃戦は、航空兵力と連係した高機動力の戦車と、機械化(自動車化)された歩兵が連係して敵を攻撃、蹂躙するというもので、その圧倒的な効果に世界中が驚かされます。
電撃戦の前にポーランドは1ヶ月も持たず、降伏したのですから。

ただ、九七式中戦車の開発は第二次世界大戦よりも数年前。
そこまでの情報収集と、時代の趨勢に対する先見の明は無かったと言えます。
むしろ、チハ車の計画当時、チニ車としてより軽装甲、軽武装の戦車を作ろうとしたくらいなのですから。
チハ車は軍の用兵側からの要望に沿ったもので、チニ車は軍令部からの要望で計画されました。
軍令部としては、予算上、高価となるチハ車より、安いチニ車を大量装備する方が良いと考えていたのでした。
しかし、日中間の戦闘が激化し、予算面の問題がクリアできた事から、チハ車が採用となりました。
ところが、そのチハ車でも、既に時代遅れでしかありませんでした。

1941年の太平洋戦争開始後、九七式中戦車は日本陸軍の主力として各地に進撃しますが、その戦闘は困難を極めました。

決して機動力が優れているわけではなく、薄い装甲(場合によっては重火器でも装甲に穴が開いたと言われていますし、大口径砲の至近弾でも破壊されたと言われています。)、初速が遅く、破壊力にかける主砲。

これしか無かったとはいえ、九七式中戦車は、あまりにも貧弱過ぎました。

アメリカ軍の主力であるM3、M4中戦車にまったく歯が立たないどころか、軽戦車のM3スチュワートに対しても互角に戦えず苦戦しています。
ましてや、世界最強といわれた、ソビエト陸軍の装備するT34戦車などには足元にも及びませんでした。

そんな、九七式中戦車でしたが、作戦がはまれば、幾度か見事な勝利を得ています。
大戦初期のマレー半島攻略作戦、そして、大戦後の占守島の戦い。
いずれも相手にまともな戦車が無かったからとは言えますが、優秀な戦車兵の努力、奮闘ゆえの勝利だったと言えます。

初速の遅い57mm砲の威力不足から、生産途中で長砲身の47mm砲装備の新砲塔タイプが作られ、九七式中戦車改(チハ改、もしくは新砲塔チハ)と呼ばれました。

しかし、その九七式中戦車改も完成当時には既に旧式と言わざるを得ませんでした。

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九七式中戦車改(新砲塔チハ/チハ改) 戦車第11連隊 1945年 占守島

日本陸軍の場合、九七式中戦車以降の後継車の開発、生産がままならなかった事が、戦車戦での犠牲を大きくしたと言えます。
結果として九七式中戦車/九七式中戦車改は2123両作られ日本陸軍の文字通り主力戦車でした。
(一式中戦車は150両程度、三式中戦車は60両しか生産されませんでした。)

ただ、相手にあのT34戦車がいなかったからとは言え、大戦後のソビエトの侵略を防いだのが、この戦車だったのも事実です。

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占守島の防衛任務に就いていた九七式中戦車と九七式中戦車改
(砲塔の形、大きさがかなり異なるのが判ると思います。)
砲塔には11連隊を示す十一を図案化した士のマークが描かれていました。

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ちなみに戦車の砲塔とはこの部分を指します。
劇中のセリフで「砲塔は無事か?」はまだしも、「外した砲塔は使えるか?」はありえませんな。
前線での砲塔取り外しとなるととんでもない労力を要しますし、砲身を外して武装解除としています。
あのセリフだけは納得できなかったなぁ…

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ちなみに砲身とはこの赤いまるで囲った部分。
大砲の砲身を指します。
これを砲塔とは言いません。
劇中これを運ぶシーンも出てきます。

まさか砲筒の間違い?
これならほうとうと読めなくは無いけど…
どうも納得いかない…

それと戦車が動けなくなった場合、擱座(かくざ)と言います。
頓挫(とんざ)だと意味が違っちゃうんだけど…

漢字読めないからなぁ
りぃ~だあ~は・・・



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【2018/05/05 23:40】 | ひとりごと
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先日お邪魔したNPO法人 ARTIST JAPAN(アーティスト ジャパン)代表の森脇友理さん。
豪快で、繊細で、眼がキラッキラ輝いている、とってもとっても、魅力的な方です。

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森脇友理さん
初めてお会いしたのは、数年前の愛知県碧南市で行われたグループ展。
ROOTS
碧南市に関わりのある鋳物、瓦、書家、竹細工といった工芸ながら、素晴らしい芸術性の作品を集めた素晴らしい展覧会でした。

元々 僕が興味を持って、行きたいと思ったのは、そのグループ展に出品していた ウエノヤマ技巧さんのダルマストーブ(タコストーブ)の復刻品を見たかったからなのですが、それ以外の作品の、工芸と芸術の見事な融合に感銘を受けました。

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ウエノヤマ技巧 上野山隆一さんのダルマストーブの復刻品
廃業した鋳物屋さんの整理に立ち会って、倉庫から出てきた木型の欠品を複製して完成させたもの
無駄の無い素敵なデザインだと思います。

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三州瓦と書のコラボ作品 (製作 瓦:加藤佳敬さん 書:森脇友理さん)

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故 鳥居一峯さんの見事な竹細工



どの作品も素晴らしいものばかりでしたが、中でも、鋳物と書の組み合わせの作品は秀逸で、発泡スチロールを使った消失鋳型による一体成型の鐘や、鋳物のバリを組み合わせた書などの作品には目を奪われました。


これを作り上げたのは、株式会社 古久根の古久根社長と書家の森脇友理先生。

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発泡スチロールの消失鋳型を使った一体整形の鐘
製作(古久根靖さん 書:森脇友理さん)

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拡大 発泡スチロールと、溶剤で書いた書の具合が素敵な作品です。

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鋳物のバリを組み合わせた書

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同上

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最近じゃ、古久根さんの社員さんが良い形のバリが出たら「社長、好いのが出ましたよ!」
とストックしてくれるのだとか…
この右端のバリはちょっと龍の頭っぽくて、カッコいいから、古久根さんが取っておこうと思ったら、友理先生がちゃっかり自分の作品に使っていたのだとか…(笑)




ちょうど会場に着いた時にすれ違ったのですが、その時の友理先生の姿、忘れられません。

ちょード派手な着物に、スッゴい髪型だったんですから…
(あ、これでも褒めてますよ、けなしてなんかいませんよ。)

何て、すっげえ個性的な人なんだろうと感心してしまいました。

このグループ展後、SNSを通じて仲良くなったのですが、昨年春、またROOTSのグループ展をするというので女房と共に再訪しました。

その時に、他にお客さんもいなかったので、かなり色々お話したのですが、想像以上な、ぶっ飛びキャラでした。
(褒めてますよ!ほんとに、ホント!!)


家で食事の準備中に携帯で電話をしてて、話に夢中になって、電話を切って、ふと気付くと携帯が無い。
仕方ないので、娘さんに携帯鳴らして貰っても見つからない。
どこにやったんだと思って、頭を冷やそうと冷蔵庫の飲み物を出そうと冷蔵庫を開けたら、そこに携帯が…(笑)


一番、素敵な話だと思ったのは、入社試験の時のエピソード。

将来、書家になりたいと、お母さんに夢を語ったら、教師でもあるお母さんはこう話したそうです。

「そう、でもね、ちゃんと、高校を出て、大学も出て、3年間会社に勤めなさい。
それが出来れば、(書家に)なっても良いわ。」と。

それならばと就職活動を開始。
彼女の考えた企業の条件は
①自宅から20分圏内である事。
②総合職がある事。
調べた結果、その条件に、見合う会社は一社しか無かったそうです。

申し込みして、面接日に意気揚々と乗り込んだのですが、受付で聞くと、その日、会社では入社試験なんてやってない。
??

受付の方に、調べてもらうと関連子会社。

「ここから、歩いて10分くらいのところなんですが、ご案内しますが…」
「いえ、タクシー呼んでください。」

15分遅れで会場に到着。

遅刻だけど、せっかく来たんだからと、無事面接を受けられる事になりました。

さて、面接です。
面接官「どうして、弊社を選んだのですか?」
「自宅から20分圏内で、総合職がある会社だったからです。」
面接官 「!?」

面接官「入社したら、何がしたいですか?」
「まだ、入社して無いので、判りません。」
面接官 「!!??」

面接官「あなた自身を色に例えると、何色ですか?」
「レインボー!」
面接官 「!!!???」


その時の彼女の姿。
黒ながら、シルバーのストライプの入ったスーツに、ハイヒール。
髪の毛は茶髪だったそうな。


ま、当然と言えば、当然の事ながら、面接はバツ評価。
落第のハズ…
だったのですが…

しかしながら、面接官の中にその会社のエライ方がおられ、その方の鶴のひと声で入社が決まりました。

しかし入社後、一年で退任される、その方の厳しい教育が待っていたそうです。

6年間死に物狂いで働いて、営業成績もとても良かったのだそうです。


そして、念願の書家へ。

古久根さんはじめ、協力してくれる方々との素晴らしい作品を作られてます。

特に古久根さんとのコラボ作品は素晴らしく、厚み1.5mmの書をしたためた鋳物のプレートだったり、長さ1m以上のまっすぐな鋳物の棒を作らせたりと、古久根さんの会社の優れた技術無しでは作れないものもばかりですが、彼女のチャレンジ精神が、無理難題に等しい技術を要求して、古久根さんたちに奮起を促しているのも事実。

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書は紙に書いたものですが、両側に1mを超えるまっすぐな鋳物の棒を貼り付けてあります!!

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書をしたためた、わずか1.5mmの厚みの鋳物のプレート!!

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この薄さお判りいただけるだろうか…


昨年は伊勢神宮に宝物として、彼女が書をしたため、古久根さんたちが鋳造し、それを手磨きで仕上げた鏡を奉納したそうです。

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当然、伊勢神宮に奉納した鏡は宝物なので見る事は出来ません。
少し異なるそうですが、これはそれと同様の技法の複製品



そんなパワフルな友理先生ですが、でも、世間一般の人たちとはどこか違う…、

普通じゃない?

ズレてる?

ご自身、ある意味、自分は発達障害なのかもって感じてて、それならばと、自分の得意な芸術を通じて発達障害の子供たちの支援をしたいと思い、ARTIST JAPANを立ち上げたのだそうです。

運営の為の寄付のお願いに、トヨタはじめ、大企業にアポ無しで行ってしまう様な方ですが、あの澄んだキラッキラした眼でお願いされたら断れないというか、一度、話くらいは聞かなきゃならなくなりますから。

僕はうどんを馳走するくらいしか出来ませんが、応援してますよ。


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【2018/04/05 20:17】 | ひとりごと
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