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安土城址


11月12日
家族でちょっと観光をという事で、安土城址に行ってきました。
言うまでも無く、織田信長が天下統一を前にして亡くなるまでの最後の数年間を過ごした城です。

今年1月に江戸城址を観に行った事もあって、天下人の城に興味があったのも事実。
もう何年も前から行ってみたいと思っていたのですが、諸々の事情もあり延び延びになっていました。
さて、安土城

絢爛豪華な天主が有名なのですが、もちろん今はありません。
諸説ありますが、信長の次男 織田信雄が本能寺の変にとち狂って焼いてしまったなんて説もあります。

今残るものとしては、石垣と石段、それと屋敷跡の礎石くらい。
果たして往時を偲ぶ事ができるかどうか…

しかし行ってみたら全くの杞憂でした。

確かに建物の痕跡はほとんど無いのですが、近年の発掘調査の結果、城の遺構はかなり再現されていています。
それを元に色々想像を巡らすのが楽しい場所でした。

びっくりしたのは、城の石垣。
まだ野面積み(牛蒡積みとも… 大きな自然石を載せていき、隙間には小さな石を入れて積む方法、石の加工はあまりされておらず、基本的には自然石のまま、表面に平たい面を出してある程度。石同士の隙間が大きいのが特徴)が主流の時代でもあり、それそのものは想像通りだったのですが、隅石の組み方が全く後の時代のものと異なっています。

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大手前の石垣

野面積みであっても、その後の時代のものは隅石だけは崩れにくくする為に、算木積み(長さの異なる長方形に加工した石を互いに組み合わせて崩れるのを防ぐ石の積み方)をしているものなのですが、どうやら僕の認識違いであったようです。

隅石にも大き目の石を置き、その間を石で埋めていく様な工法を採っています。

算木積みそのものはその後の時代のものらしく、安土城址の場合、本能寺の変の後、炎上廃棄された為に、後の世に修理が入らないままになった為に、当時の石垣がそのままの形で残った様です。
これは嬉しい誤算でした。

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隅石も後の時代の石組みとは異なる積み方

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独特の石組み

安土城の特徴は大手門から、光り輝く天主に向かって一気に駆け上がる巨大なメインストリート。
まさにブロードウェイとも言うべきもので、天下人としての権威の象徴の様です。
そして、その両側に有力家臣の邸宅が並びます。
伝承によると、入り口左が羽柴秀吉。右が前田利家の邸宅だったとか。
更に前田邸の上に徳川家康邸(現在は消失した総見寺が移築されています。)が並んでおり、安土城の大手筋の入り口は犬、猿、狸が守っていたみたいです。(コラ!!)
(ま、冗談ですけども… 関西人は事、家康に関してはそう思っていますからねぇ…)

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大手筋(幅6mのメインストレート)
この左が羽柴秀吉邸、右が前田利家邸、右上(現在は総見寺)は徳川家康邸と言われています。

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伝羽柴秀吉邸の敷地。
それほど広くはありませんが、機能的に作られていたようです。

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安土考古学博物館の伝羽柴秀吉邸の再現模型
上下2段の敷地に建てられた屋敷だったようです。

大手筋の石段は石組みも大きく、段も高いので小柄な人には上るのもひと苦労。
また敵襲の場合、大手前の3つの虎口(こぐち)を抜けてから、ようやく大手筋に到達出来るものの、そこまでにも数多くの武家屋敷があったので、まずはそこでも防御したと思われます。
そして、そこを破ったとして、大手筋の石段に到達したとして、幅が6mにもなるストレートで広いな大手筋ですが、これはこれで、かなり急な高めの石段であり、一気に駆け上がるのは難しく思えます。
大手筋は途中大きく折れ曲がるのですが、そこまでは左右の大名屋敷の高い塀で囲まれており、またその直線距離も鉄砲の射程距離程度であり、意外と防御しやすのでは無いかと思います。

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大手筋を上から…
ストレートな上に左右には高い塀がそびえていたとの事で、身を隠す場所は無く、その距離もほぼ当時の鉄砲の射程距離。
打ち降ろしですから、敵方は射程が鈍り、防御側有利に思えます。

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総見寺の石垣
やはり隅石の積み方が独特です。

石垣が主流となったこの時代、城作りには多くの石が必要であり、近隣から多くの石が運ばれました。
大手筋の石段には多数の石仏(地蔵仏)が使われていて、いかにも神仏を信じず、現世を見据えていたといわれる信長らしい処置に思えます。

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現在の総見寺。
消失後ここに移築され、併せて大手筋も埋められてしまった為に、近年まで安土城本来の姿が謎に包まれていたようです。


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石段の随所には石材の調達で埋められた石仏が幾つも見られます。


大手筋は天主を向いて、まっすぐに延びていますが、途中から急に左に曲がります。
そこには信長の祐筆(書記官)であった武井夕庵の屋敷があり、そこからジグザグに折れながら石段は続き、更に登ったところに長男 織田信忠の屋敷があった様です。

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大手筋の曲がり角すぐにある祐筆(書記官)武井夕庵邸跡

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大手筋が左に曲がってから、石段は更に急峻になります。

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長男 織田信忠邸跡

更に登って、そこから二の丸、本丸となる訳ですが、本丸御殿はかなり大きなものだった様ですが、信長はここには住まわず、(一説には本丸御殿は天皇の御座所の計画だった様です。)自らは天主に住んだといわれています。

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更に登ります。

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本丸御殿手前の黒金門(くろがねもん)前の石垣。かなり巨大なものです。
名前から鉄で覆われえた門だったと思われます。

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本丸御殿跡。

天主は5層7階建て(地上6階、地下1階)。
中は大きな吹き抜けがあったと言われ、6階は八角形の2重構造になっており、内は龍が刻まれた柱に極楽浄土を描いた金蒔絵の壁画があり、外周りは地獄絵図だったといわれ、最上階は金箔貼りの部屋で中国の聖人の壁画が飾られていたそうです。

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天主跡
礎石しか残っていませんが、この上に絢爛豪華な天主が建っていました。

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天主台から琵琶湖方向を眺めます。
当時はまだ干拓されておらず半島が突き出した湖でした。

考えるに安土城は、当時のヨーロッパの城郭を模していた可能性が高いと思いました。
例えばクエンカとか、モンサンミッシェルみたいに山の上にそびえるキリスト教の城郭都市と共通する部分が幾つも垣間見えます。
多くのヨーロッパからの宣教師や商人との交流を望んでいた信長の事、きっとそうした城郭都市の情報も得ていたのでしょう。

そう考えるとライトアップをして城を荘厳に見せたり、見物料を徴収して城を見学させたりしたというのも頷けます。

闘う為の城ではありますが、それ以上に天下を見据えて、天下人の権威をまざまざと見せつけるそんな工夫が随所に見て取れるのです。

安土城と比べると、江戸城(現存する大阪城もそうですが…)など江戸幕府の城って面白みが無くて、何だかこけおどしの巨大建造物にしか見えないんですよねぇ。

安土城、秀吉時代の大阪城の凄さって、大きいだけではなく、その演出効果も魅力的に見えて堪らないのです。


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安土城の風景いろいろ
すっかり秋の気配でした。

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その後、信長の館へ
残念ながら写真のアップは出来ないのですが、安土城天主の最上部が復元されています。
これは必見。


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【2016/11/17 17:40】 | 城攻め
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