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勝家のその後…




清洲会議

1582年、天王山の戦いに勝利し、主君の仇、明智光秀を破った秀吉は清洲で織田家の相続会議に出席します。
北陸で上杉氏と対決しており仇討ちには参加できなかった柴田勝家や、本能寺の変の結果、全軍に動揺が走り、関東から逃げ帰った滝川一益を始め、織田家の有力武将が集まり織田家の今後を協議します。

まず、跡継ぎを誰にするかが問題でした。

信長の嫡男 信忠は本能寺の変で横死しており、その為、勝家らは三男 神戸信孝を推しましたが、秀吉は信忠の子 まだ3歳の三法師(のちの織田秀信)を推します。
会議の途中、秀吉は欠席しますが、これは作戦で山崎の戦いに出た武将たち(丹羽長秀、池田恒興ら)が賛成し、三法師を跡継ぎにする事に成功します。

そのあと、跡継ぎとなった三法師に家臣一同拝謁する事になるのですが、秀吉はその養育権を得た事から、家臣たちの平伏する中を三法師を抱いて入場し、まるで織田家の家臣たちは三法師ではなく秀吉に拝謁したかと見える状況を作り出してしまいます。
大半の家臣にとっては「まるで(羽柴)筑前めに挨拶している様なものであったわ。」と笑い話となりますが、柴田勝家らにとっては許しがたい行為でした。

翌月、秀吉は信長の葬儀を大々的に執り行い、その後継者たる印象を世間に植え付けていきます。

柴田勝家や、神戸信孝はそんな秀吉に敵意をいだき、警戒します。


賤ヶ岳の戦い

柴田勝家は清洲会議以後、秀吉が行った数々の違約を糾弾します。
また各地の勢力に働きかけ秀吉をけん制します。しかし、秀吉のほうが役者は上でした。
勝家の領地は北陸であり、冬季は動きがままならない事を見越して、一旦勝家と和睦を結び、まず、勝家と並んで抵抗勢力の代表である神戸信孝を岐阜城に攻め降伏させます。
また勝家に差し出した長浜城は秀吉とは仲のよかった勝家の養子 勝豊が城主となっていましたが、これも降伏させてしまいます。
翌1583年、伊勢で滝川一益が秀吉に叛旗を翻しますが、これを叩くと称して、秀吉は軍を出します。
この情勢を見て、勝家は矢も楯もたまらず、雪の中を出陣し、近江との境にある賤ヶ岳に陣を張ります。

これを嗅ぎつけた秀吉は滝川一益の立てこもる城にわずかの兵を置き、5万ににも達する兵を急遽、賤ヶ岳に向かわせ、約3万の兵を擁した勝家との決戦に臨みます。

当初はにらみ合いでしたが、佐久間盛政が敵中への進撃を提案します。
勝家は反対しますが、強硬な意見に遂に折れ、その策を聞き入れます。
敵陣深く侵攻した盛政ではありましたが、この期を逃さず秀吉は盛政の背後を断つべく大攻勢に転じます。
一進一退の激闘でしたが、秀吉と仲のよかった前田利家が賤ヶ岳から兵を引き上げてしまった事から、勝家の軍は総崩れとなります。

この時、秀吉は馬廻りの軍勢を敵陣に突撃させ俗に賤ヶ岳の七本槍といわれる英雄を作り上げます。
(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の7人を指します。)
最もこれは子飼いの家来を持たない秀吉のPR戦略であった様です。

前田利家は軍を引き上げた後、越前府中城に籠もりますが、退却途中の柴田勝家が訪れ、食事を希望し、それまでの労をねぎらったといわれます。
また追撃してきた秀吉もまた城内に入り、その利家を先鋒に勝家の居城 北の庄を攻めます。

結局、柴田勝家は正室 お市の方の連れてきた3人の娘を秀吉の元に逃した後、お市ともども自害しています。


その14に続く


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【2012/06/16 17:20】 | ひとりごと
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