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続きです。

本能寺のその後




秀吉の中国大返し

先に書いた様に、京都は各軍団の空白地帯となっており、各軍団はそれぞれに敵と戦っているか、兵力の集中を待っている状態で、すぐに光秀に対して戦える状態ではありませんでした。

本能寺の変の後、光秀は各地の反信長勢に対して密書を送り、自分への協力を取り付けようとします。
また、朝廷に働きかけ、自分は由緒正しい源氏の末裔(事実そうでした。)であり、征夷大将軍への任官を要望し、朝廷もそれを受け入れます。

さて毛利氏との決戦を前にしていた秀吉ですが、光秀の放った毛利方への密使を運良く捕らえる事に成功します。
そして、本能寺の変の事実をひた隠しに隠し、毛利との和睦をするのです。

毛利軍は秀吉軍の作り上げた堤防を遠巻きにし、対峙していましたが、秀吉軍が出した和睦の提案に対して難色を示します。
それは城将 清水宗治の切腹をする事というのがその条件だったからです。
交渉役だった安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)は一計を案じ、毛利本陣にはそのまま帰らず、高松城の清水宗治に直接交渉に向かいます。
おのれの腹ひとつで城兵たちの命が助かるのならばと、宗治は自決を決意し恵瓊にその故を伝えます。

こうして清水宗治は切腹し、備中高松城は開城し、和睦が成立したのです。

しかし、この直後、紀州雑賀衆の放った密使が毛利氏に駆け込み、本能寺の変の実態を知る事になります。
猛将 吉川元春(きっかわ もとはる=毛利元就の次男)は秀吉軍を襲撃する事を提案しますが、智将 小早川隆景(こばやかわ たかかげ=毛利元就の三男)はこれを諌め、秀吉に恩を売る事で、毛利氏の安泰を得ようと攻撃をさせませんでした。

秀吉軍は大急ぎで暴風雨を冒して姫路に帰り、(この時一部の部隊は堤を決壊させ、毛利軍の追撃を抑える作業を行いました。) ここから各地に伝令を走らせ、信長の武将たちに応援を要請します。そして、わずか10日間の内に200kmもの距離を戻り、明智光秀との決戦を迎えるのです。



山崎(天王山)の戦い

京都の南、現在の京都府と大阪府の境に当たる山崎で、明智光秀の軍と、羽柴秀吉の軍が衝突します。

頼みとしていた細川幽斎、筒井順慶らの応援が得られず、約1万5千の光秀軍に対し、秀吉軍は約3万3千。
更に秀吉は朝廷に働きかけ、光秀追捕の詔勅を得ます。これにより、光秀は朝敵となってしまったのです。

光秀は狼狽しながらも狭隘な山崎の地の利を生かして抵抗を試みます。

しかし、秀吉の作戦は巧みなものでした。
既に決戦の場に到着する以前に、山崎の地に近い茨木城主 中川清秀(なかがわ きよひで)、高槻城主 高山右近(たかやま うこん)らを味方に引き入れ、勝利を確実なものにしていきます。
要衝となった天王山をいち早く占領する事にも成功し、形勢は一気に秀吉軍有利に傾いていきます。

激闘の中、光秀軍は側面を衝かれ、全軍総崩れとなり、一旦は勝龍寺城に退却しますが、そこでも持ちこたえられず、光秀の軍は本拠である近江 坂本と丹波 亀山を目指して散り散りになって壊走します。
勢力を立て直すべく目指した本拠地が2つあり、個々の兵がそれぞれ別の場所に向かったのも、その後の流れを悪くしたと考えられます。

この混乱の中、光秀主従は坂本を目指して逃亡しますが、途中で土民の落ち武者狩りにあい竹槍で刺され、光秀は命を落としたといわれます。



家康の脱出

徳川家康は堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった事を知ります。
このとき、家康の供は小姓衆など少人数であり、極めて危険な状態でした。
現に信長に降伏した穴山信君(あなやま のぶただ/のぶぎみ=梅雪ばいせつ)は急ぎ家康と別行動をとり甲斐(現在の山梨県)に帰ろうとして落ち武者狩りにあい、横死しています。

一時、家康は狼狽して信長の後を追おうとするほどでした。
しかし、本多忠勝に説得されて翻意し、更に服部半蔵の進言を受けて、伊賀の険しい山道を越え、加太越から伊勢へ抜け、海路三河にたどりついたのです。

これは信長の攻撃で一時は滅亡寸前だった伊賀衆(いわゆる忍者たち)が家康への忠誠を誓うきっかけにもなりました。

俗に神君伊賀越えといわれる事件ですが、三方が原の戦いと共に家康の危機のひとつといわれています。

その後、家康は明智光秀を討つ為に軍勢を率いて尾張まで進軍しますが、既に羽柴秀吉によって光秀が討たれた事を知り、以後自国の経営に専念しています。


その13に続く


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【2012/06/16 16:20】 | ひとりごと
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