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TEAM NACSの第16回本公演『PARAMUSHIR』観て来ました。

太平洋戦争終戦前後の話ですが、幾つか難しい用語、名称等があり、もしも理解が進めばと まとめてみました。

ネタバレにはならないとは思いますが、全く予備知識無しで見たいって方は読まないでくださいね。




















まずは日本陸軍の階級から
日本陸軍は下から

二等兵 
一等兵
上等兵
兵長 ここまでが 兵
伍長
軍曹
曹長
准尉 ここまでが 下士官
少尉 ここからは 士官
中尉
大尉
少佐
中佐
大佐
少将
中将
大将
元帥

となります。
一般人は入隊すると兵となり、以後、昇進を重ねたとしても下士官までしか昇進できません。
少尉以上の軍人はいわゆるキャリアで、然るべき陸軍の定める教育機関(士官学校)を出ないとなれませんでした。
ただ、例外もあり、戦争が激しくなり、大学生が出征した場合、士官と同等とされ、士官扱いとして入隊しました。

各士官は、少尉、中尉は小隊長(部下50人程度)、大尉が中隊長(数個小隊をまとめた部隊 部下200人程度)、少佐、中佐が大隊長クラス(数個中隊をまとめた部隊 部下800人程度)、大佐が連隊長(部下2000人程度)、少将が旅団長(部下5000人程度)、中将が師団長(部下1万人程度)、大将が軍司令官(部下数万人)として指揮をとりました。
軍の組織としては平時と戦時では編成が異なる為、部下の数も変わりますが、概ねこの様な編成をとっていました。


ノモンハン事件
1939年夏(5~9月)に起こった、ソ連/モンゴルと日本/満州国との間の国境紛争。
(同年9月にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が起こっています。)
ソ連の影響下にあったモンゴルと、日本の影響下にあった満州国 (現在の中国東北部に作られた事実上、日本の植民地) の武力衝突に端を発し、ソ連軍と日本軍の大規模な戦闘にまで発展しました。
ソ連/モンゴル 兵力約8万人、戦車、装甲車 約900両。
対して、日本/満州国 約6万人、戦車、装甲車 約90両。
航空勢力では日本側が優勢でしたが、地上戦では、大幅な機械化、近代化されたソ連軍の前に、日本の戦車隊は全滅し、迫り来るソ連戦車の大群を前に、日本軍は地雷と火炎瓶で辛うじて抵抗しなければならないという事態に陥りました。
両軍共に9000人前後の戦死者を出す大規模な戦闘となりましたが、日本側は後退を余儀なくされ、結局、ソ連、モンゴルの主張する国境線を認める事になります。
日本陸軍はこの敗北をひた隠しに隠し続け、貴重な戦車戦、機械化部隊との戦い方などの戦訓を何ひとつ検討、考慮する事無く、太平洋戦争に突入しています。


ガダルカナル島の戦い
1941年12月 日本軍による真珠湾攻撃、マレーシア半島攻略作戦で幕を開けた太平洋戦争はその後、ベトナム、フィリピン、オランダ領インドネシア等の攻略をし、順調に推移していましたが、1942年6月 ミッドウェイ海戦で日本海軍は虎の子の航空母艦4隻と、優秀な航空兵多数を失う大敗を決しました。
ただ、その後も日本軍の侵攻の勢いは衰えず、南太平洋ソロモン諸島の攻略に乗り出します。
ポートモレスビー島ラバウルに航空基地と拠点を設け、更に東のガダルカナル島に航空基地の適地を見つけ、そこに上陸。
滑走路の建設を開始しました。
しかし、1942年8月 滑走路の完成直前にアメリカ軍が上陸し、滑走路もろとも占領されてしまいます。
日本軍は反撃に出ようとするも、圧倒的なアメリカ軍の物量の前になすすべも無く後退させられ、絶望的な戦いを挑む事になっていきます。
ガダルカナル島での地上兵力は、日本軍36000人に対し、連合国軍60000人。
日本軍は何度か戦力補強を試みますが、その為に組織された輸送船団は壊滅的な損害を被り、仕方なく高速の駆逐艦によるドラム缶輸送(ねずみ輸送)や、潜水艦による輸送(もぐら輸送)を決行しますが、ガダルカナル島の将兵に乏しい食料、武器弾薬を補充出来たに過ぎませんでした。
当然ながら、兵力の大幅な増援等は望めず、作戦に投入された数多くの艦艇 (戦艦2隻、航空母艦1隻、重巡3隻、軽巡1隻をはじめ駆逐艦、潜水艦など多数) が逆に損害を被る結果となり、その後の作戦にも多大な支障をきたす事になります。
作戦拠点となったラバウルから、ガダルカナル島までは1000kmもの距離があり、日本海軍の誇る零戦の戦闘行動範囲ではあったものの、連日の長距離行動 (往復6時間の飛行+空戦) に乗員の疲弊は甚だしく、損害も続出していきます。
単に1000kmといってもピンときませんが、札幌→大阪と同距離。
これを一日で行って、戦闘して帰ってくるのですから、疲れなんて取れる訳ないです。
(有名な撃墜王 坂井三郎氏 負傷、西沢義広氏 戦死など)
前線視察に訪れた 山本五十六提督は、暗号解読し待ち伏せしたアメリカ軍機に撃墜される事件まで起こります。
最終的に1943年2月に日本軍はガダルカナル島から撤退しますが、地上戦での戦死者は22000人に及び、生き残った兵士も、全て骨と皮だけの飢餓状態でした。
生き残った兵士は、死期を迎えた仲間の兵士を食べたとの記録も残されており、ガダルカナル島 (略してガ島) は餓島と呼ばれる事になります。


東京大空襲
1943年以降、日本軍は各地で絶望的な戦いをしつつ、撤退に次ぐ撤退を重ね、1944年6月にマリアナ諸島のサイパン島、グアム島、テニアン島を失うに及び、日本全土は、超空の要塞 ボーイングB-29 の攻撃圏内に入ってしまい、日本各地が空襲にさらされる事になりました。
アメリカ軍の作戦は、当初、軍事基地の攻撃を行う計画であったのですが、その効果は予想よりも少なく、アメリカ軍は方針を換え、日本の焦土作戦を開始します。
それはもはや、軍同士の戦いという戦争ではなく、一般市民をも犠牲にしても構わないという身勝手な大虐殺そのものでした。
木造の建物の多い日本の攻撃の為、焼夷弾を準備し、しかも、周辺から燃えさせて、逃げ場を無くし、殲滅するという悪魔の様な作戦で、日本の各都市を破壊、消失させていったのです。
東京には都合5回の空襲が行われていますが、中でも1945年3月10日の空襲は10万人もの被害者を出し、東京大空襲と言われています。
アメリカ軍は、木造住宅の密集した下町を中心に火災を起こし、焼け出された住民の多くは、炎を逃れ、川に避難したものの、高温の火炎ガスの為、逃げ場を失い、その殆どが蒸し焼きにされるという悲劇を生みました。


モダンタイムス
1936年公開のアメリカ映画。
モノクロ作品。
監督、脚本、主演、 チャールズ・チャップリン。
チャップリン初のトーキー映画
そしてチャップリンの代表作のひとつ。
テーマの本質は、80年経った今でも色褪せていないと思います。
エンディングはバラ色の未来を描いてはいませんが名シーンとして名高いものです。
ぜひ、ご覧ください。


シベリア抑留
1945年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約 (日本とソ連は互いに相手国を侵略しないという条約 1941年成立) を一方的に破棄し、満州、北朝鮮、南樺太、さらに千島列島に侵攻してきました。
日本軍は各地で敗走しましたが、9月になり停戦合意に至ります。
その時、ソ連軍に捕虜となった日本兵はシベリアへ護送されました。
その数、日本政府調べで57万5千人 (資料によりますが、65万人から最高200万人とも) が抑留されたと言われています。
彼らは、短くて2年、長いものになると10年以上、シベリアで奴隷同然の強制労働に従事させられました。
防寒具も、暖房もろくに与えられず、掘っ立て小屋同然の収容所に入れられての労働で、その結果、多く犠牲者が出ます。
また、勤勉な日本人は与えられたノルマを果たしたら、早々と帰ろうとする為、さらに厳しいノルマを課せられ、それで被害を大きくしたとも言われています。
最終的な犠牲者の数は、日本政府調べで5万5千人としていますが、最高34万人以上とする資料もあります。


追記
兵役逃れと醤油の一気飲み
太平洋戦争前、日本の成人男性は全て兵役検査を受けていました。
そこで、甲種、乙種、丙種と健康状態を振り分けられ、軍への入隊の判断をされました。
そうした徴兵から逃れる為、良く使われたのが醤油の一気飲みで、醤油を大量に飲み、体調を崩して徴兵検査を受けるというものでした。
ただ、これは非常に危険な賭けで、血中の塩分濃度が上昇する為、失敗すると死に到る事もありました。
無事に生還するには豆腐を1丁丸呑みするしかなかったとも言われています。

かの舞台を、より深く知る一助になれば幸いです。


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【2018/02/11 18:12】 | 観劇
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