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いつの間にやら第10弾…








柴田勝家の戦い

1574年(天正2年)、越前朝倉氏が滅亡し、その後起こった一向一揆を鎮めた信長軍は更に百姓の持ちたる国加賀の一向一揆を攻め、南部の二郡を手に入れます。
そして、梁田広正がこの地を任されますが、勢いを取り戻した一揆軍に呑み込まれてしまいます。
信長は加賀の支配を柴田勝家に一任する事にし、加賀、能登(現在の石川県北部)、越中(現在の富山県)の攻略戦を担当する事になります。
そして、4年間の激しい戦いの結果、加賀を征し、その後、能登、越中にまで進攻、上杉氏の越中における最後の砦 魚津城、松倉城(いずれも現在の富山県魚津市)を包囲したのでした。


明智光秀の戦い

丹波・丹後攻略が終了した1580年(天正8年)以降、約二年間光秀は大きな戦いには参加していません。
むしろこの時期、執政官としての手腕を発揮しており、大和の検地を実施したり、1581年(天正9年)京都で行われた馬揃えの準備を行っています。
この馬揃えは同年正月に安土で行われた爆竹(さぎつちょう)が評判を呼び、正親町天皇自らこれを見たいと希望した事から京都でも行う事になったものです。
(一説には信長が天皇へ譲位を迫る為の示威行為だったとも言われています。)

爆竹(さぎつちょう)とは本来はどんど焼きの事なのですが、信長の行ったものは事実上軍事パレードでした。
光秀は、安土での馬揃えの準備、道具作りなどに辣腕を振るい、信長を感動させ、これをもっと大規模にして京都で実施する様に命じられます。
その準備は会場作りから、飾りつけ、道具作りまで含め、周到を極め、その全てを滞りなく行った点、光秀の企画、実行能力の凄さがうかがえます。
馬揃え当日、朝8時から昼2時頃まで、ありとあらゆる趣向を凝らした衣装、飾りを身に着けた兵たちが行進し、騎馬武者たちは輪乗り、騎射などその馬術を披露し、信長自身自ら所有する名馬を乗り換え乗り換え披露し、その華麗さ、派手さは比類ないものでした。
正親町天皇は12度も勅使を信長のもとに遣わし、「これほど面白い遊興は見た事がない」とこれを褒め称えました。
光秀は大いにその面目をほどこしたのでした。



豊臣(羽柴)秀吉の戦い

羽柴秀吉は各地を転戦した後、1577年(天正5年)山陽方面の征服担当となり、かねてより臣属を誓っていた播磨の国(現在の兵庫県南西部)姫路の土豪 小寺官兵衛(こでら かんべえ=黒田官兵衛)の居城 姫路城を拠点に播磨・但馬(兵庫県北部)を平定していきます。
そして、短期間の内に播磨各地を転戦し、播磨・但馬がようやく平定したと安堵した矢先、三木(現在の兵庫県三木市)の別所氏が離反してしまいます。
更に摂津の荒木村重が謀反を起した事から、秀吉は東に別所、荒木、西に毛利に挟まれ窮地に立たされます。
信忠らの応援を得つつ、2年間の戦いの末、三木城の別所氏を滅ぼします。

播磨 現在の市町村でいうと
姫路市、加古川市、高砂市、加西市、三木市、小野市、西脇市、明石市、神戸市垂水区、西区、須磨区西部、北区淡河、たつの市、相生市、赤穂市、宍粟市、加東市
加古郡播磨町、稲美町、多可郡多可町、神崎郡福崎町、市川町、神河町、揖保郡太子町、赤穂郡上郡町、佐用郡佐用町

1578年(天正6年)頃から、備前の宇喜田直家(うきた なおいえ)がよしみを通じてきた事から事態は好転しはじめます。
宇喜田直家は、陰謀、謀殺など、権謀術策の限りを尽くしてのし上がってきた武将でしたが、なぜか秀吉にだけは忠節を尽くし、まるでそれまでの人生全てを投げ出したかの様な仕え方をして秀吉を助けました。
(大河ドラマ『巧妙が辻』では関が原の戦いで活躍した宇喜田直家の子、秀家を顕ちゃんが演じていますね。)

別所氏を滅ぼした後、秀吉軍は西に進軍し、因幡(現在の鳥取県東部)の守護 山名豊国(やまな とよくに)を追い出し毛利氏の属城となった鳥取城を兵糧攻めにします。
城兵たちは毛利氏に対し指揮官の派遣を依頼し、鳥取城での籠城戦に臨みますが、毛利氏から派遣された一族の吉川経家が到着した時、城内に兵糧米はほとんどない状態でした。
これは秀吉による作戦で、秀吉は若狭(現在の福井県西部)から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせたのです。
その為、慌てた毛利勢が兵糧搬入しようとしたのですが、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止してしまったのです。
この時、城には20日分の兵糧しか用意されておらず、すぐに秀吉は鳥取城を包囲した為、またたくまに兵糧は尽き飢餓に陥ってしまいました。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し、人肉を食らう者まで現れる有様となりました。
吉川経家はこの凄惨たる状況に、自らの命と引き換えに開城し、自害しました。

秀吉は、更に備中(現在の岡山県西南部)に軍を進め、周辺の城を攻略し、備中高松城を攻撃します。
備中高松城は低湿地帯に作られた城であり、周囲は沼地の為、城への攻撃路は細く、秀吉軍は2度総攻撃を行いますが撃退されてしまいます。
そこで黒田官兵衛が提案した水攻め作戦を採る事にし、大規模な土木工事を実施します。
この堤防は東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめて城そのものを水没させてしまおうという大規模なものでした。
工事には士卒や農民らを動員しましたが、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えました。
一説には褒美に目がくらんで、敵兵までこの工事に参加していたとも言われます。
堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期で降り続いた雨にも助けられ、高松城は湖の中の孤島と化してしまいました。
秀吉軍は堤防の上の各所に見張り場を設けて敵とにらみ合う事になります。

毛利氏にとって、外様であった備中高松城主 清水宗治(しみず むねはる)は決意は堅く、秀吉軍の包囲のもと防戦に努めますが、そんな宗治を殺す事は出来ないと毛利氏は全力を挙げてその救援を開始するのでした。

その11に続く
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柴田勝家の戦い

1574年(天正2年)、越前朝倉氏が滅亡し、その後起こった一向一揆を鎮めた信長軍は更に百姓の持ちたる国加賀の一向一揆を攻め、南部の二郡を手に入れます。
そして、梁田広正がこの地を任されますが、勢いを取り戻した一揆軍に呑み込まれてしまいます。
信長は加賀の支配を柴田勝家に一任する事にし、加賀、能登(現在の石川県北部)、越中(現在の富山県)の攻略戦を担当する事になります。
そして、4年間の激しい戦いの結果、加賀を征し、その後、能登、越中にまで進攻、上杉氏の越中における最後の砦 魚津城、松倉城(いずれも現在の富山県魚津市)を包囲したのでした。


明智光秀の戦い

丹波・丹後攻略が終了した1580年(天正8年)以降、約二年間光秀は大きな戦いには参加していません。
むしろこの時期、執政官としての手腕を発揮しており、大和の検地を実施したり、1581年(天正9年)京都で行われた馬揃えの準備を行っています。
この馬揃えは同年正月に安土で行われた爆竹(さぎつちょう)が評判を呼び、正親町天皇自らこれを見たいと希望した事から京都でも行う事になったものです。
(一説には信長が天皇へ譲位を迫る為の示威行為だったとも言われています。)

爆竹(さぎつちょう)とは本来はどんど焼きの事なのですが、信長の行ったものは事実上軍事パレードでした。
光秀は、安土での馬揃えの準備、道具作りなどに辣腕を振るい、信長を感動させ、これをもっと大規模にして京都で実施する様に命じられます。
その準備は会場作りから、飾りつけ、道具作りまで含め、周到を極め、その全てを滞りなく行った点、光秀の企画、実行能力の凄さがうかがえます。
馬揃え当日、朝8時から昼2時頃まで、ありとあらゆる趣向を凝らした衣装、飾りを身に着けた兵たちが行進し、騎馬武者たちは輪乗り、騎射などその馬術を披露し、信長自身自ら所有する名馬を乗り換え乗り換え披露し、その華麗さ、派手さは比類ないものでした。
正親町天皇は12度も勅使を信長のもとに遣わし、「これほど面白い遊興は見た事がない」とこれを褒め称えました。
光秀は大いにその面目をほどこしたのでした。



豊臣(羽柴)秀吉の戦い

羽柴秀吉は各地を転戦した後、1577年(天正5年)山陽方面の征服担当となり、かねてより臣属を誓っていた播磨の国(現在の兵庫県南西部)姫路の土豪 小寺官兵衛(こでら かんべえ=黒田官兵衛)の居城 姫路城を拠点に播磨・但馬(兵庫県北部)を平定していきます。
そして、短期間の内に播磨各地を転戦し、播磨・但馬がようやく平定したと安堵した矢先、三木(現在の兵庫県三木市)の別所氏が離反してしまいます。
更に摂津の荒木村重が謀反を起した事から、秀吉は東に別所、荒木、西に毛利に挟まれ窮地に立たされます。
信忠らの応援を得つつ、2年間の戦いの末、三木城の別所氏を滅ぼします。

播磨 現在の市町村でいうと
姫路市、加古川市、高砂市、加西市、三木市、小野市、西脇市、明石市、神戸市垂水区、西区、須磨区西部、北区淡河、たつの市、相生市、赤穂市、宍粟市、加東市
加古郡播磨町、稲美町、多可郡多可町、神崎郡福崎町、市川町、神河町、揖保郡太子町、赤穂郡上郡町、佐用郡佐用町

1578年(天正6年)頃から、備前の宇喜田直家(うきた なおいえ)がよしみを通じてきた事から事態は好転しはじめます。
宇喜田直家は、陰謀、謀殺など、権謀術策の限りを尽くしてのし上がってきた武将でしたが、なぜか秀吉にだけは忠節を尽くし、まるでそれまでの人生全てを投げ出したかの様な仕え方をして秀吉を助けました。
(大河ドラマ『巧妙が辻』では関が原の戦いで活躍した宇喜田直家の子、秀家を顕ちゃんが演じていますね。)

別所氏を滅ぼした後、秀吉軍は西に進軍し、因幡(現在の鳥取県東部)の守護 山名豊国(やまな とよくに)を追い出し毛利氏の属城となった鳥取城を兵糧攻めにします。
城兵たちは毛利氏に対し指揮官の派遣を依頼し、鳥取城での籠城戦に臨みますが、毛利氏から派遣された一族の吉川経家が到着した時、城内に兵糧米はほとんどない状態でした。
これは秀吉による作戦で、秀吉は若狭(現在の福井県西部)から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせたのです。
その為、慌てた毛利勢が兵糧搬入しようとしたのですが、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止してしまったのです。
この時、城には20日分の兵糧しか用意されておらず、すぐに秀吉は鳥取城を包囲した為、またたくまに兵糧は尽き飢餓に陥ってしまいました。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し、人肉を食らう者まで現れる有様となりました。
吉川経家はこの凄惨たる状況に、自らの命と引き換えに開城し、自害しました。

秀吉は、更に備中(現在の岡山県西南部)に軍を進め、周辺の城を攻略し、備中高松城を攻撃します。
備中高松城は低湿地帯に作られた城であり、周囲は沼地の為、城への攻撃路は細く、秀吉軍は2度総攻撃を行いますが撃退されてしまいます。
そこで黒田官兵衛が提案した水攻め作戦を採る事にし、大規模な土木工事を実施します。
この堤防は東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめて城そのものを水没させてしまおうという大規模なものでした。
工事には士卒や農民らを動員しましたが、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えました。
一説には褒美に目がくらんで、敵兵までこの工事に参加していたとも言われます。
堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期で降り続いた雨にも助けられ、高松城は湖の中の孤島と化してしまいました。
秀吉軍は堤防の上の各所に見張り場を設けて敵とにらみ合う事になります。

毛利氏にとって、外様であった備中高松城主 清水宗治(しみず むねはる)は決意は堅く、秀吉軍の包囲のもと防戦に努めますが、そんな宗治を殺す事は出来ないと毛利氏は全力を挙げてその救援を開始するのでした。

その11に続く
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【2012/06/16 11:34】 | ひとりごと
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